2011年のコラム

   

今月のひと言

当社のコラム担当 「今が好き♪」 氏のコラムです。毎月連載します。

    
2011年 12月号 「ゴルフ仲間」
11月号 「レオン」
10月号 「本所界隈」
9月号  「都営交通と京王電鉄」
8月号  「なでしこジャパン」
7月号  「発電瓦」
6月号  「ツバメの巣作り」
5月号  「原発事故」
4月号  「東日本大震災」
3月号  「立川北口」
2月号  「中国語と韓国語」
1月号  「ヨガ」
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12月号 「ゴルフ仲間」

 「ゴルフ仲間」は高校・大学・社内・顧客・関係業界などいろいろなコミュニティにいて、どれも楽しいが、最近、これに町内会が加わった。誘いあって数台の車に相乗り、町内から圏央道あきる野ICがすぐ、中央道や関越道沿いで近場のゴルフ場を利用している。プレイ後の反省会は一度家に帰ってからなじみの飲食店に再集合。飲みすぎても這って家に帰れる距離、家族にも所在と飲み仲間が明確だから歓迎される。足代から飲み代まで会費も安く、上下や利害関係も無しで気が置けない。ご近所の利点は結構多い。
 11月の火曜日、早めの西伊奈町内会忘年コンペがレディス2名、定年組多数を入れて14名で開催された。大月ICを降りてすぐの「花咲カントリークラブ」での開催で、天候はうす曇り風も無しの好コンディショだ。ところがこのゴルフ場、始めてみると藪に入ろうが谷に落ちようが一打罰でプレイでき、結局、全ホールOBなしの設定であった。昼食付きで一万円以下、首都圏に近く交通至便でウイークデイでも結構な込みよう。プレイ時間を早め、同時にスコアアップサービスとはいえ、あまりのルールに唖然。これで筆者などは通常より5打以上改善されたが、上達したわけでも戦略が良かったわけでもなく、釈然としない結果だ。

 総じて日本のゴルフコースはルールが甘い。ローカルルールと称して規則無視のサービスルールで運営されている。筆頭は前進4打措置。第一打目OBではその場から一打罰で打ち直すべきところを、前方特設ティから一打罰と、打ち直したつもりの一打の計二打罰を加えて打たせるもの。更にトラ杭の設置。隣のホールに落ちたボールを打つことを禁止し、一打の罰を加えてこちら側で打たせるというもの。本来ゴルフコースはプレイできるエリア(スルーザグリーン等)とそれ以外の区域(OB)の2種のはず。上の花咲のルールは問題外だ。
またグリーン上ではパター以外のクラブの使用が禁止されているがこれも規則にはないルールだ。
 ゴルフ場側の都合やプレイヤーに媚びたルールで実力以上のスコアとなっても何も改善しない。規則を本来のもの近づけて昼休みを割愛すれば終了時間も伸びず、料金も下がってこちらには好都合だが‥‥。 


11月号 「レオン」

 今回は本稿を借りて、この9月に亡くなった愛犬「レオン」の追悼文とします。子供も大きくなった平成14年10月、家人の希望で小さな犬を飼おうということになりました。休みのたびにペットショップにでかけ、トイプードル・パピオンなどを見て回りましたが今一つ。そのうち、話を聞いた横浜住まいの家人の姉から白い小犬で、友人があげてもいいと言っているとの電話です。オス生後4カ月、姉も対面済みで気に入ると思うという連絡。犬種は初めて聞いたビション・フリーゼ、二つ返事でゆずりうけることにしました。早速、ベッドやら食器やらをそろえたのち迎えに。こうして11月に小さな家族が増えました。この犬種はベルギー原産で中世期は女性に人気だったという。さて名前、ベルギーと聞いてすぐに思い出したのはブリュッセルで寄ったレストラン。ムール貝を夫婦でバケツ一杯食べた店「SHEZ LEON」からレオンと命名しました。
 
 以後、家中から愛され、猫ならぬ犬可愛がりの日々。下のしつけも出来て、我々と川の字に寝るようになり、夏は足元で、冬は交代にどちらかの布団にもぐって朝まで一緒です。従順で利発、一日中留守番をしていてもいたずらは皆無、従って叱る必要もありません。散歩は大好き、家の誰とでも喜んで出かけました。成長しても3.5Kg、近所にたくさんの友達ができ、チワワなど小型犬とは仲が良かったものの、自分より大きな犬に出会うと吠えだすのがたった一つの玉にキズでした。ペットを飼えば分かることですが、可愛さひとしおストレスもいやされ、かけがえのない存在でした。
 
 レオンの幸せだった9年の日々をこの6月突然、病魔が襲いました。外出から帰った夜、出迎えに飛んでくるはずが、この日は足腰が立たずもがくのみ。あわてて病院へ急行。食欲もなく、熱中症らしいと点滴をして帰りました。節電は即中止、冷房を始めたせいか楽そうでしたが、症状は一進一退、元気に散歩をしたかと思うと、次の日はふらふら。9月になって検査の結果、末期の肝臓がんと判明、貧血もひどく輸血でしのぎましたが、23日になって間もない深夜、みんなに看取られて逝きました。可愛がってくれたおばあちゃんの家の裏庭
に眠っています。レンガの墓碑は「レオンここに眠る 2002-7-16~2011-9-23」。家人の筆、筆者が彫りました。

 


10月号 「本所界隈」

 「本所界隈」を歩いて回りました。8月28日の日曜日、例の江戸東京博物館で開催中の都営交通100年展を見るために出かけたものですが、またとない晴天。ついでにほぼ完成した東京スカイツリーの写真も撮ることにして一眼デジカメに標準・魚眼・望遠の3本のズームレンズをバッグにつめて用意万端、あちこち歩き回ることを考えると車より電車と言うことで今回はETCカードでなく、スイカカードの出番。
 錦糸町駅から地下鉄で押上に行く予定でしたが駅北口からツリーが望め、歩きながら近づいて行くことに。結局、ツリーふもとの浅草通りまでは電線が写りこんで満足な写真はとれずでしたが、途中のラーメン屋で冷やし中華と、徒歩の利をいかしてビールを詰め込んで昼食。浅草通りから北十間川沿いの道路に入るとさえぎるもの無しのツリーがデーンと聳えて圧巻。工事防護壁には「上を向いて がんばろう日本!」の横断幕。川に架かる押上駅前の京成橋から西側の業平橋駅前の東武橋までが間近に見る絶好のポイント。観光客は全員上を向いて写真撮影、こちらも負けずに壁紙写真をパチパチです。今回は全行程歩きと決めて、ここから隅田川に向かい振り向きながらの撮影、吾妻橋交番前の陸橋から撮った浅草通り奥に立つスカイツリーの写真が一番の出来でした。
 
 駒形橋ふもとから南下。関東大震災で大勢の犠牲者を出した被服廠跡地の横網町公園(両国にあるので今までヨコヅナチョウと読んでいました:正解はよこあみちょう)慰霊堂を過ぎて両国国技館となりの江戸東京博物館到着。ややばて気味でしたが、本日の主目的を見学することに。入館料1520円とありましたが窓口嬢は私の顔を見るなり、「65歳以上760円です。」と年齢を看破、得した気分も半減でした。都営交通100年展は残念ながら場内撮影禁止で、大正期の円太郎バスや精巧な電車・バスなどのモックアップ模型などは見るだけ。かわりに場外展示の6000型都電と元東京市電で現函館市電の除雪用ささら電車は撮影自由でした。常設展も見て回りましたが、こちらは撮影可でも節電で照明が不十分、ストロボは禁止で写真はあきらめです。江戸の勉強に専念しました。両国駅から帰宅して、この日の歩数計表示は16,061歩でした。ヤレヤレ!



9月号 「都営交通と京王電鉄」
 今年は「都営交通と京王電鉄」の開業100周年とのことでこの夏から記念展が開かれています。「都営交通100周年記念特別展」が9月10日まで両国駅の江戸東京博物館で、「京王線100年と調布」展が京王多摩川駅の調布市郷土博物館で10月10日まで開催中。まだ両方とも間に合います。
 昔はどちらにもお世話になりました。江東区で生まれ育ち、昭和43年に多摩地区へ転居するまでの交通手段はもっぱら都電で、最寄り電停は29系統終点の葛西橋でした。当時の29番は葛西橋~錦糸町あるいは須田町間を運行。小中学時代はこの都電で錦糸町の江東楽天地へ、境川で38番に乗換えて日本橋などへ遊びに行きました。当初、子供片道5円と記憶しています。高校は錦糸町の都電車庫前の一つ先、江東橋下車で停留所正面の両国高校に
通学。大学も同じ都電で錦糸町のひとつ前の亀戸駅前下車、ここから国電で新宿まで出て、京王線で調布まで全行程ほぼ2時間。今ではすっかり開けてゲゲゲの女房でも有名になりましたが、都内からはるばる来たと言う感じで4年間通いました。
 
 今でもOB会などで大学に行く機会がありますが、足はほとんど車で京王線には不義理をしています。調布と言えば深大寺や植物園、東京天文台など周辺の地理には明るい方ですが、先日時間が空き、郷土資料館のたぐいがあるはずとカーナビをセットして寄ることに。住宅街の狭い道をさがして、ようやく到着。お寺の境内といった風情の中、郷土博物館がたたずみ、3台ほどの駐車スペースもあって一安心。正面入り口に映画全盛時代の背丈より大きい
映写機が堂々の自己主張、調布は映画の街でもあったのです。知らずにきたのですが、奥の部屋で「京王線100年と調布」展開催中。歴代車両模型・制服や役務用具、往時の写真や絵図の展示などなかなかの内容。2階の土器・石器・古文書・民芸品も見学して市の文化や歴史も勉強しました。


8月号 「なでしこジャパン」
 政治不信に震災・節電、加えてとどまることを知らない放射能被害と円高。消沈の日本に「なでしこジャパン」の女子ワールドカップ優勝の朗報が18日朝、報じられた。
 梅雨明けからは飼い犬レオン(ビション・フリーゼ9歳雄)の散歩を暑くなる前にと、このところ6時起き。この日は試合が気になって、起きがけすぐにTVをつけたところ、米国と死闘の末同点、まさにPK戦が始まらんとする絶好の場面。勝なし全敗中の相手によくぞここまでと感心しながら観戦した次第。ひょっとしたらの思いは先攻米の最初の選手がブロックされてから、あれよあれよと言う間に現実となり、失礼ながらまさかの優勝。寝ている家人を起こして優勝を告げると、この日知らされた全ての人の共通第一声、「ほんとう?」
 
 以後、彼女たちへの称賛・賛辞はご存知の通り。我々にあたえた喜びと希望の大きさは計りしれない。国民栄誉賞を与える話も出てさらに、始まった女子リーグの観客も優勝前の500人ほどが一気に18,000人に急増したとのことでご同慶に耐えない。もともとプロでは生活できずバイト・パートのながら選手、今後はプロとしての将来が開けることを願っている。優勝報奨金は一人150万円予算、男子チームの場合は5000万円を予定したと聞くからあまりの格差に仰天だ。これほどの人参でも優勝どころか近付けもしなかった男子チーム。
まっ、茶髪にピアス、生活もらくちんとくれば決意の差は歴然、男子に優勝を期待したのは間違いか。協会はなでしこへの報奨金増額を検討中とのこと。
 
 足のすねを見せるのもご法度、ましてやものをけるなどもってのほかの大和撫子がこの快挙。MVPの澤選手が小学生時代所属した府ロク(府中市立第六小主体の名門ジュニアサッカーチーム)では当時試合に女子が出場していることが誰にも分らなかったとか。余談だが我が愚息は大学生時代この府ロクでキーパーのコーチをしていたが、澤さんは年上で接点は無し。もう一つの澤つながりは、多摩地区でホテル経営をしている田中社長から伺った話。母親が府中アーバンホテルに数年間勤務していて、高校生の澤さんに何度か会っているとのこと。すでにお母さんはTVに出演していて、これからもTVや講演会に登場しそうな様子だった。何はともあれ、なでしこのみなさん感激をありがとう!



7月号 「発電瓦」
 友人にソーラーパネルで屋根を葺いてしまう屋根施工会社の社長がおります。「発電瓦」と呼びたいのですが、1枚は通常のパネル並み、160×80cm前後200W程の出力。屋根の上に設置するものに比べ、屋根自体が軽くなり見てくれも上々で、新築時にこの屋根を採用すれば助成金と合わせて工事費も軽減、震災後の引き合いが増えているとのことです。
 
 震災の一週間ほど前、3月3日に東京ビッグサイトでスマートグリッドEXPO展が開催され、見学しました。当日、同時開催の太陽電池・燃料電池展にも足を延ばした際にソーラーパネルの施工デモを行っているブースを見つけ、近寄ってみると株式会社カナメの看板。上述した旧知の渡部社長の顔も見えて、間近に迫った原発事故を知る由もなく、温暖化対策でこれからは有望株だ、などと立ち話をしました。
 本社は宇都宮で寺社仏閣の屋根施工が得意、瓦も従来の粘土瓦でなくアルミ・鋼板成形の金属瓦が主体。2008年には東京は浅草寺本堂の屋根改修をチタン瓦で施工、経済産業大臣賞を受賞しています。発電瓦はチタン瓦に続く新製品とのことでした。
 今回の震災は巨大だった割に家屋の倒壊が少なかったようですが、代りに東北から関東の広い範囲で屋根から瓦が滑落してしまった家屋が多く、常磐道・東北道・東関東道などからは被災から3カ月がたった今もブルーシートの屋根が見受けられます。瓦も屋根職人も不足し当のカ社も屋根修復で大忙しとのこと。ついでに発電瓦化も打診しているようですが、とにかく1日でも早く元に戻してほしいとの要望が圧倒的で、やはり新築対応が妥当のようでした。
 
 今後、本来の瓦並みの大きさで一枚一枚が文字通り発電瓦と言えるようなソーラセルが開発されれば、形も面積も発電量も細かに設定でき、多くの建築物に応用できそうですが。いずれにしても脱温暖化・脱放射能の本命は太陽発電が今のところ筆頭格。変換効率向上・コストダウン・日照量調整用の蓄電方法・スマートグリッド化等々課題は多くとも是非、開発と普及を進めてほしいと思います。原発廃止を決めたドイツには南部にフライブルクという都市があり、太陽光発電を中心にした環境宣言都市として注目を集めています。わが国でもこうした都市を目指す自治体が現れないものでしょうか。



6月号 「ツバメの巣作り」
 「ツバメの巣作り」が終わったようだったが、2日ほど姿が見えなくなって心配していたところ、昨日の朝になって、赤い頭が見えてじっとしていたので一安心。卵を産んで抱いているに違いない。我が家の玄関ポーチ内側に巣があって、毎年だったり1・2年間があいたりするが、ここ10年以上簡単な補修で再利用されている。
 ことの起こりは30年前の新築時にさかのぼるが、玄関先の真新しい照明器具に泥がつき始め、みるみる広がってあわてた。当時は周辺に水田が多く残り、材料の粘土は目と鼻の先にあって、乾く間もなくツバメの巣が形成されていった。やむなく近くに木の棚を作りそこに巣をはがして移転。しかしながらこの巣は見向きもされず再び照明器具に泥が。申し訳ないがこの泥は落とさざるを得ず、結局ツバメは我が家をあきらめてこの年の営巣はなし。気の毒な事をしてしまった。
 ところが翌年5月、移転した巣が修復され、内側にわらなどが敷かれて完成。無事4羽のヒナが飛び立って行った。以後永らくこのパターン。子供が小さい時期で家中が巣立ちを楽しみにしていた。現在の巣は後年この巣棚が放棄され、その脇に作られた純粋に手作りというか口作りのもの。最初の巣棚はきれいに掃除してあるが、使う気はなさそう。ときどき親鳥のいずれかが交代待ちでこの棚にとまっている。
 
 さて、今年もこれから半月ほどでヒナが誕生するはず。卵の殻が巣の下に落とされ、誕生とヒナの数も判明するが、これからが親たちも家主も大変。親は頻繁に虫などを運び込み、巣の下を虫やら糞やらで汚す。家主は新聞紙を床に貼り、ときどき交換しなければならない。玄関の出入りも上を見ながらそ~っと。おどかすと親鳥が家の中に舞い込み追い出すのに一苦労だ。ヒナが落ちている時もあり、さすがにショックだが墜落死か死んで放り出されたかは不明、庭に埋めてやることにしている。親がえさを持って戻るたびにピーピー大合唱。毎回4・5羽が誕生し、ひと月足らずで一度に巣立って行くが、巣立ちの瞬間を目撃することはまずない。からっぽの巣になって分かるのみ。一度、写真を撮ろうと間近にカメラを向けたところ一斉に飛び立ち、そのまま戻らないことがあったが‥‥。



5月号 「原発事故」
 とうとう、重大な「原発事故」が起きてしまった。それも原発建設では技術と安全性で世界トップクラスの日本でのことである。大震災直後では事故の国際評価尺度はレベル4、爆発で次々に建屋が吹き飛びレベル5に。その後も、炉心融解の程度不明、冷却も進まず、高濃度に放射能汚染された海水の貯蔵・隔離もままならず、避難地域拡大でついに最悪のレベル7を認めた当局。こうした事故は本来、最悪事態に備えて先手々々の対処が常識だが、直ちには影響が無い・20Km圏外は安全など心配無用の強調と行政の無能を隠すため、事態の全貌を小出しにし、対策は後手々々。結局、国民はゆでガエル状態だ。
 電源が回復していながら1ヵ月が過ぎても全く好転する気配がなく、今後おこるかも知れない破局を思えば、同レベルのチェルノブイリの事故以上で、我が国のみならず全世界を不安におとし入れている。地震と津波はどんなに大きく被害が甚大でも、発生後は日を追うごとに状況は改善されて行くが、原発事故は逆。発生後から被害が拡大し地球規模で長期的に影響を与え、一国のみにとどまらない。はからずも原発の恐ろしさを改めて世界に示した事故と言える。
 
 思えば、安全性も廃棄物の処理法も解決していない原発を地震と津波大国の沿岸に建設したのも無謀だったし、首都圏で使用する電力を遠く離れた福島や新潟で発電すると言うのも都会側の危険回避が見え見えで周辺住民を馬鹿にした話だ。とは言いながら、原発の論点は立地の問題ではなく、もはや是か非かにあることは明らか。こうした事態になっても原発不要論が報道されることは無く、高円寺での原発反対デモが1万人規模に発展したことや義援金100億円の孫社長と田原総一郎のNET会談で原発是非国民投票論が提案されたこと、また、浜岡原発廃止運動が東南海地域を中心に活発化していることなどは黙殺されている。
 NHKは国会での予算承認が、民放や新聞はスポンサー確保が足かせとなって、したくても‥‥多分‥‥原発批判ができない状態だ。いずれにしても、本件が一段落したら国をあげての議論は避けて通れそうにない。原爆と原発、二重の核被災国としてどう生きるべきか、正しい選択が我々に課されている。(原子力発電は本稿2008年2月号で既報)



4月号 「東日本大震災」
 我が国を文字通り震撼させた3月11日の「東日本大震災」、震源は南北500Km東西200Kmに及ぶプレート境界の活動による東北地方太平洋沖地震であった。当日、筆者は年金基金団体の50名ほどで、福知山の環境試験機メーカーの見学会に参加。工場での昼食後、散会となりあとは東京に帰るだけとなった。例によって車で出かけたがまだ時間が早く、かねてから行きたいと思っていた京都の梅小路蒸気機関車館に寄ることに。扇型の機関庫に蒸気機関車がずらり、とりあえず動態保存の8630号機が引き出され、うす煙と蒸気をあげている姿を見つけて写真を撮っていたところ、足元がゆらり。めまいがして、ついに脳梗塞かと思いきや、建物からこどもたちが飛び出してきて、地震と分かった次第。
 その後1時間ほどで車に戻りラジオで地震の大きさを知って、仰天。ケータイで自宅の様子を聞こうにも不通、その内、家人からメールで「恐怖の揺れで、今まで1番」と、こちらも急いで帰ると返信して帰路に。高速に入る前に給油し‥結果的にこれが最後の給油となり現在はガス欠状態‥、すでに大津波被害が報じられていたので海岸沿いの東名高速を避け、中央道を使うことに。検査不通で一部高速を降りたものの24時頃無事帰宅。新幹線組は翌日帰宅になったとのこと。自宅に被害は無くDVDや本が棚から落ちた程度だった。

 巨大だった割に大きな横揺れがゆったり長く続いた地震で、家屋への被害が少なかったのが今回の特徴。津波で押し流された家屋の多くは倒壊を免れていたようだった。激しい縦揺れでビルが倒壊した阪神淡路大震災とは大違い、津波が無ければと悔やまれる。福島原発にしてからも、安全神話が壊れたとは言いながら当時の想定基準M8.2を16倍上回るM9.0によく耐え、崩壊することなく自動停止したことはむしろ賞賛されるべきで、こちらも想定5mを越える10m以上の津波が無ければほぼ無傷であったはず。その後の東電・政府の対応に非難が集中しているが、誰一人準備や想定をしていなかった事態の発生で、もともとどう対処すれば最善であるかなど未知の分野だ。放射能被曝の危機に直面しながらも最悪のシナリオを回避するため、命がけで原子炉の鎮静化に奮闘している関係者に、傍観者のこちらは、ただただ最後まで頑張ってほしいと願うだけだ。


3月号 「立川駅北口」
 毎年、「立川駅北口」で「たま工業交流展」が開催され、この2月で第10回の開催となった。もともとは立川商工会議所が音頭をとってルミネ立川の地階ホールで行った「たま工業技術展」が前身。多摩地区の情報関連・製造業者の展示会を企画したもので我がSCI社もこの時代から参画、企業・団体など十数社の出展であったと記憶している。この展示会が翌平成14年に第1回たま工業交流展と改まって、立川・昭島など周辺5市1町と各商工会議所を巻き込んでメッセ昭島(現在のカインズホーム昭島店)で開催、90社参加で大々的に行われ、第5回からは会場を昭島から立川の国立昭和記念公園内「花みどりの文化センター」に移して、今日に及んでいる。主催市町村も増加、出展団体も140社となった。

 この交流展、金土に行われ、筆者も毎年来場者への応対にあたっているが、取引先関係者の来場は金曜に集中し、土曜日は公園など行楽のついでと言った一般の来場者が多く、多少時間が空いてしまう。そこで毎回覗いてみるのがセンター内の「昭和天皇記念館」。天皇ゆかりの品・行幸記録・植物研究所紹介などの常設展とは別に特別展があり、今年は日産プリンスロイヤルの展示。昭和42年製造の御料車で普段はロールスロイスが展示してある場所に鎮座。写真では往年のプリンスと見まがうが、これが全長6.1m、幅2.1mでエンジンは6.4㍑の堂々たるリムジン仕様、係員にお値段を聞くと「?」。当然動態保存、なんでも鑑定団でも評価は難しそうだ。
 
 実は記念館から徒歩10分程のところに「国文学研究資料館」があり資料の一部が公開されているという。今回は、時間がありそうなので出かけてみると、残念ながら土日祝日休館。ところが近くに「南極・北極科学館」の看板が。資料館のとなりに国立極地研究所が移転してきたばかりで、併設の科学館も開店ほやほやとのこと、入場無料で早速見学することに。かつて活躍した大型雪上車・ラジオゾンデ・100kgを越す隕石など豊富な展示は一見の価値ありだ。今度はカメラ持参でじっくり見るつもり。更に、この界隈には地震など災害体験のできる防災館もあり、加えて市役所・警察・裁判所・防災医療センター・国立国語研究所・自治大学校などが移転整備されて文教行政地区として発展中。是非訪問あれ!


2月号 「中国語と韓国語」
 観光地や繁華街で「中国語と韓国語」をよく聞きます。奈良東大寺・大阪城・京都清水寺・デズニーランド・ハウステンボス、近くは秋葉原・銀座・新宿など、人出の多い場所ですれ違いざまに耳に入ります。わが国では多くの自治体が海外からの観光客増を地域活性化の課題としていて、特に隣国中国韓国が主要目標。駅、商店、街頭の案内に英語に加えて中国の略字体やハングル文字が多くなりました。
 観光客誘致には相手国の文化・歴史などの理解と意思疎通が欠かせません。要するに言葉が通じなければ文字通り話にならないということです。最近気づいたことですが、意外とこれらの会話に通じている知人が周りにいます。昨年の高校同期夫婦での韓国チェジュ島旅行では幹事役の同級生が通訳を務めました。特に組織的に習ったわけでもなく毎年出かけていつの間にかと言った調子。食事・買い物・交通などの会話に不自由が無いとのこと。中国語では中国ビジネスを手掛けて渡航機会の多い企業の社長仲間。飲めば中国語のカラオケ、中国人従業員のいる飲食店では行った先の都市に関する会話で盛りあがったり。
 
 さらに驚くのは筆者の3女。前月号紹介のヨガ娘二人の妹ですが、昨年6月から海外赴任した夫君の後を追って、現在上海暮らし。スカイプで時々話しますが、すでに日常会話をマスターして不自由はないとのこと。もっとも近くに中国人妻を持つ会社の同僚がいて、この奥さんが同世代、すぐ格好の友人となった由。以後中国語の発音など個人特訓を受けてメキメキ上達、家での夫との会話は日中ちゃんぽんだそうな。更にこの娘は中国渡航前からハングルは得意。円高を利用し年に何回もソウルへ買い物旅行に出かけて鍛え、日本で会う韓国人との会話では同国人と間違えられたとのこと。
 
 彼らに共通点が一つ、英会話はほとんどダメ。こうして見ると中学から大学まで延々習っても物にならず、英語でどれだけ時間を無駄にしたかが悔やまれます。顔の類似はともかく文法や文化の近さと漢字圏であること、発音やヒヤリングが欧米語より容易なことなどがこうした言語の習得を無理のないものにしたのでしょう。英語より中国語韓国語の方が役に立つ時代がくれば、外国語学習も楽になりそうです。


1月号 「ヨガ」
 インド北部、ガンジス川上流に位置するリシケシュという町は「ヨガ」の聖地として有名です。筆者の2人の娘は市内(あきる野市)のヨガ教室に行きはじめて4年ほど。一昨年、その前年と2度リシケシュに行き、今では両名ともインストラクターとしてそれぞれ数名の生徒を担当し、通っているヨガ教室のスタッフとして活躍中。当地ではアシュラムと呼ばれる宿舎・道場付き僧院に1か月ほど滞在し、世界各国から集まった修行者とチームを組んで毎日きめられたスケジュールに沿って生活するとのこと。心身の働きや健康法を学んだり実
践したり、座学ではサンスクリット語の学習、インド哲学の講義を受けたりです。 
 授業はもちろん、会話も全て英語で難儀をしたようですがチームの誰かが英語の個人教授を引き受けてくれたりでしのいだ由。滞在費はひと月7万円、プラス足代など8万円が旅費。毎年行きたいらしいのですが昨年はお小遣の都合でインド行きは無しでした。出張でのヨガ指導も主催し、近くは立川近辺、遠くは小笠原諸島まで遠征、旭川も時々と結構いそがしくしています。

 更に、昨年7月にはヨガ教室と棟続きの一室をスタッフ総出で喫茶室に改造し、手作りの「カフェ グハ」をオープンさせました。グハはサンスクリット語で隠れ家の意。顧客層は教室の50名ほどの生徒で、教室を終えた後のだんらんとコーヒーやチャイ、ランチの提供が目的。採算は二の次で、週3~5日のオープン、営業時間は昼から日没までとファジーというかその日の状況次第。筆者も改装中から見に行きましたが、インド風内装、古家具・廃材利用の調度、ハーブの庭を望むテラス、トイレは特筆もので、洞窟作りの白壁に広い空間、ガラス破片を組み合わしたステンドグラスと思わず用が済んでも長居がしたい雰囲気です。  
 開店以来、生徒の友人や家族にリピーターも増えて、店内で販売している、インドで仕入れた小物やアクセサリー、スタッフ手作りの編みぐるみ・クッキー・生活雑貨などの売上も順調、なんとか採算ベースを保っているとのことです。娘たちの応援になればと紹介しましたが、場所は武蔵五日市駅の東、秋川の北側で一度では覚えられませんが、是非にと思われる方は店名でネット検索ください。ブログで地図にアクセスできます。

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